「大きな」話の虚無 宋文洲

何だろう、この違和感。講演の後に受ける質問ですが、ビジネスのテーマなのに天下国家の「大きな」質問が多いのです。「中国がどうなるか」、「インドがどうなるか」、「格差をどう思うか」と。経済の自立が問われる地方に限って「大きな」質問が多いのです。

先日、ある地方の経営者向けの講演会の質問時間に「格差の大きい中国はどうなるか」と聞かれました。本音では「外国を心配するよりもここ日本の経済を心配してください」と言いたいところですが、さすがにそれはルール違反ですので「わからない」と断った上、私見を述べました。

主催側の依頼で講演後の立食パーティに出席したら今度は「中国は8%の成長がないとやっていけませんから、今回の危機を乗り越えられますか」と聞かれました。自国のマイナス15%を気にせず他国の6%成長を心配するこの余裕はいったいどうやって生まれたのか不思議です。

どんな小さな業界団体の会合に出ても開会式や乾杯の挨拶は決まって国際情勢から始まり国家の現状を通じて会の話に落ち着くのです。型通りの作法といえばそれまでですが、「大きな」話をする癖がこういう雰囲気の中で身に染まるのだろうとつくづく思います。それは中国の文化大革命によく似た風潮です。

天下国家に無関心でいいと思いませんが、「大きな」話に熱を出す人はだいたい自分のことを棚に上げている傾向があります。ソフトブレーンの経営から身を引いた私はよく「まだ若いのだからもっと社会貢献しないとダメですよ」、「日中の架け橋になってくださいよ」など、「大きな」ことを言われます。昔の中国共産党の書記に会った気分になります。この違和感はたまりません。

今の中国共産党でさえ、そんなきれいごとは言わないのです。私は自分の家族、友人、知人、顧客、あるいは同じ地域に住む人々、そして何よりも私は自分のために生きるのです。他人を尊重することも思いやることもそして愛することも全部自分のためであり、無条件な奉仕ではないのです。

世界に関心を持つことはいいことです。国をよくしたいことはいいことです。しかし、そんなことを思って日々の活動をしている人がいるでしょうか。困難に直面した時に結局心の支えになるのは家族の愛や友人の情けやチームの結束ではありませんか。

日本の書店に入ると、カバーに「日本」という文字が踊る本の多いこと。皆が「大きな」話が好きですね。天下国家、憂国憂民なのです。最後に必ず批判で終わります。「国がだらしない」、「政治家がダメ」、「マスコミがおかしい」は定番メニューです。

私はかつて「一日も早く会社に貢献できる人間になります」と豪語する新入社員に言いました。「あなたは会社のことを心配してくれなくてもいいからまず自分の給料を稼げる人間になってください」と。

日本に貢献したいならば日本に頼らない人間になることです。その時、GDP1.5倍の国債は初めて減少に向かいます。世界に貢献したいならば異なる価値観に寛容になることです。その時、世界はより戦争から遠ざかります。

P.S.死ぬ思いがあれば・・・

韓国の元大統領が自殺したと聞いて悲しみましたが、「なぜそんな愚かなことを!」と腹が立ちました。

生きている人間は毎日確実に死に近付いて行きます。どんなに愛している家族とも、どんなに美しい風景とも、いずれ永遠に別れるのです。このメールを読んでいる皆さんもどんなに頑張ってもいずれこの仕事も手放す日がくるのです。

人生は「人が生きる」ことなのです。ただ生きる、それだけでよいのです。小鳥が鳴くのも鹿が跳ねるのも生きる意味を理解したからではありません。

生きること自体は素晴らしいことです。死ぬ思いがあれば闘いながら生きる勇気をもってほしいものです。

(終わり)